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 BMW Motorcycle Owners Club 
風見からの一言

風見奥さんからの一言

斉藤武司からの一言
埼玉県比企郡の斉藤です。
 

金子からの一言

↑2003年 BMWフェスティバルin長浜にて↑

↑クラウザー4バブルヘッド↑
↓1983年掲載↓

「東京国際女子マラソン選手権大会」
■詳しくみる→こちら
でこそメジャースポーツとなった女子マラソンですが、1983年「第5回東京国際女子マラソン」開催するにあたりサイドカー中継協力の申し出でが丁∨朝日より会長に打診されました。条件は、スポンサーの関係でBMWでなく、ホンダ車が望ましいとのことで当時GL1100+ワトソニアンモナコ右カーの払が指名を受けました。 

 さらにもう一つの条件が左カーでの撮影でした。会長の工場で左フレームに付け替えられ(ボートはそのまま)、風防周りを外し床にはカメラの雲台が取り付けられるよう加工しました。 

 サイドカーオーナーは、最初のサイドカーが左カーであればその後もずっと左カーを乗り続けるのが一般的です。その理由は、その運動特性にあります。ブレーキを掛けると本車は減速し、カー側は慣性の法則により前に押し出ようとします。アクセルを空けると逆になります。したがって、左カーから右カーに乗り換えるとアクセルのオン・オフ、プレ−キング全て反対の特性となり(パニックブレーキを掛けるとブロック塀に張り付きそうになったりと怖い思いもしましたが乗りこなせるようになりました)、サイドカーオーナーとなってから、その後乗り換える機会はあっても最初のサイドカーと同じ仕様のカーが一般的です。 

 さて、開催数日前、六本木のTV朝日(現在のピルになる前の頃です)に移動中継車への改造のためサイドカーを持ち込みました。リアトランクの中にはダンバーが効かなくなるほど多くの4輪車用のバッテリーを積みました。写真に写っている鍋が乗ったようなアンテナは画像の送信アンテナ(もう一本は音声用)です。 カメラマンは製作技術部撮像課開口さんです。

 サイドカーからはパス
2台の移動中継車を経て、途中33台の国定カメラ(ピル屋上など)やヘリコプターを介し本社へ送られる仕組みです。カメラマンはバス中継車から無線で指示を受け、それを私はインターコムで聞きながら指示されたコースを走ります。 準備が整ってカメラリハーサルは第一京浜から平和島折り返し点までの本番と同様の往復コースで始まりました。 交通規制がかかっていない国道を、サイドカーとパス中継車の間に一般車両をあえて割り込ませたり、電車のガード下など電波状況が悪くなった場合を想定してのリハーサルは陽が傾くころ終わりました。サイドカーはTV局預かりとなり、その夜は六本木の街へ招待されスタッフ行きつけの店へご一緒させていただき楽しい一時を過ごさせていただきました。

 この大会はロス五輪選考を兼ね行われ、増田明美選手もエントリーしていたものの数日前の怪我で出場取り消しとなり一抹の不安の中で始まりました。開催日当日の朝、局から廻されたハイヤーは自宅前で1時間程前から待機していて指定された時間になって運転手は自宅のベルを押し、丁∨局の仕事は時間に正確でうるさいほどだなと関心しました。30分ほどで局へ到着し、3号移動中継車として国立競技場に向かいました。

 スタンパイの場所は競技場を出た絵画館近くのところで、すでに先導の白バイが待機していました。スタート開飴時間が過ぎてもなかなか選手が現れず緊張して待っていること数十分。果たせるかな英国のバーレイがトップでやって来て暫くして第二集団の中に日本人選手を見つけました。

 皇居の沿道に美智子妃殿下が選手に手を振られてその場面を撮るとの指示(当然、直前までこのことは知らされておりません)がされました。コースは当然のこと片側車線通行止めの中、或るときはランナーと同じ速度、また、或るときは第二集団からトップまでの距離を撮影する場合として法定速度以上で進みました(当然先導白バイを追い越す場合も黙認されました)。 


 38km
過ぎの外堀沿いの飯田橋から四ッ谷見附までの上り坂ではアイルランドのレジナジョイスがS Bの佐々木七恵選手(佐々木選手は瀬古選手と中村監督のもと一緒に練習して来たそうです)との一騎打ちとなりました。その先の道路は幅員が狭くパス撮影が叶わないためサイドカーならではの撮影シーン展開となりました。選手サイドからの撮影要求に途中車線幅が更に狭くなり対向車線へはみ出し走行での撮影をしデッドヒートしている選手の横顔を撮ることが出来ました。

 その事は、その夜行われた「打ち上げパーティ」で番組制作部長より「パスで撮れない空白時間はどうしようかと思っていたところ良い絵を撮ってもらい大変良かった」との言葉をもらいました。レースは佐々木選手が競り勝って日本人選手として初の表彰台に上がりました(浅井えり子は
5位入賞を果たしました)その後日本の女子マラソンの台頭はご承知のとおりです。

 私たちは、レース終了を見届ける前に局に帰り機材を外し自宅に戻りました.帰り際、「今夜、打ち上げパーティ予定していますのでお待ちしています」とのお誘いに断る理由も無く、当然のことと了解し、配車されたタクシーにて局に向かいました。パーティ会場では教百名に及ぶ関係者が雑踏のように入り乱れる中、乾杯の声をきっかけに美味しい料理と酒をいただき「丁∨局のイベント打ち上げとはこのように行われるものなんだ!」とぴっくりいたしました。
2次回3次回と引き続き誘われて六本木の街でTV朝日スタッフと共に梯子酒の夜となりました。(金子)


稲木からの一言
稲木です。

染色工房「稲木」のホームページはこちら

管理人 横浜の中島(ビーパル親爺)からの一言

ヘルメットはGPA、スーツはクシタニ
アメリカのライダー真似てライトオンで走っていました
 左の写真は1983年に、福島までツーリングに行ったときの写真です。
バイクは79年にトライアンフから乗り換え新車で購入した二本サスのR100RSです。当時はBMWのバイク自体も少なく、ましてやゴールドですから目立ってました。
 以来、今日までBMW一筋で、現在所有しているBMWは84年に中古で購入したアールズのR60/2と2022年手にいれたR80(1995年製)それにサイドカー。気分によって使い分けています。
 なぜ私をここまで引き付ける、その魅力を言葉で説明できません。乗り出すと、どこまでも走り続けたくなってしまう気持ちは、一体どこから生まれるのでしょうか。それを求めるために今日も走ります。

2006年11月 九州やまなみハイウェイにて

 ホームページを立ち上げるにあたって
当クラブに入会したのは1997年(平成9年)ですが、クラブの方と親しくなるにつれて、先人が歩んでこられた話など聞くと、私などは少年の心に戻ってしまいます。

少年時代より、雑誌「オートバイ誌」や「モータサイクリスト誌」が私の座右の書でスーパーカブを乗り回していました。「モーターサイクル別冊」が発売された時は、バイクはジェントルな大人の乗り物だと実感いたしました。その別冊の創刊号(78年11月、名車ステッカーつき)は今でも大事に持っております。

すばらしいクラブ員の方の話や歴史あるBMWの車種などの記録を、残したくホームページを2003年10月21日立ち上げました。
ホームページ自体が初めてですので、試行錯誤でやっております。見づらいところもあると思いますが、お許しください。また、それらの雑誌などより抜粋したものがありますが、全て私に責任がありますので、何かありましたら私にご連絡ください。

こういう風に書くと、私はBMWについて、メカ等にも詳しいと思われるでしょうが、私は全て販売店まかせです。やはり持ちつ持たれつつ、プロにはプロの技術があります。よくBMWのパーツは高いと言われますが、今でも約50年前の私のR60の部品は殆んどあります。

HONDAは本田宗一郎氏が亡くなってから、古いパーツは生産しなくなったと聞いております。やはり売れるかどうか分からない物はストック出来ないということでしょう。
ある程度、高くなったとしても、その部品を造ることの方が、私は企業の責任だと思っております。

そういった事などが啓蒙できるような、ホームページが出来たらいいなと思っております。

当クラブに興味のある方は、一度、ツーリングにでも参加してみてください。
きっと、BMWとクラブ員の虜になってしまうでしょう。

クラブ員の方には今後も、苦言、助言の程、宜しくお願いします。


走るTシャツ屋のホームページはこちら

R60/2(1984年購入)
購入以来、日本全国を走り回っています。
2009年には韓国ツーリングも達成!!
「旧車で巡る奥の細道」のツーレポは→こちら

R80 (1995年製)最終型
2022年11月、R1200RSを売却し中古にて購入
 2020年手に入れたBMW R80+バイワーゲン
サイドカーは初めてだが北海道ツーリング達成!ツーレポは→こちら
海外ツーリング 
 韓国ツーリングは→こちら



ヨーロッパツーリングは→こちら 
 イギリスツーリングは→こちら
ニュージランドツーリング→こちら
イタリア・シチリア島ツーリング→こちら
 
「 BMWボクサージャーナル」vol.42号に掲載されました。
 
 
 
 トップページ写真の秘話
トップページの写真は2003年夏、オポーズドツィンクラブに参加した時、東北道のSAにて、撮ったものです。一番手前は、私のR60、そして栃木の鈴木さんのR69S+TR500、奥のマシンは,何とBMWでなく日野の古溝さんのソ連製ウラルです。それが分かった方は偉い!!
 その、R75のフルコピーのウラル、本体からカー側にドライブシャフトがR75同様直結されていて、後ろから見るとシャフトがクルクル回るのが見えて、なぜか可愛いのです。
 ちなみに、写真そのものは、携帯電話のF505iで撮りました。最近のケータイは大したものです。
■ 10万アクセス達成記念Tシャツプレゼントは終了いたしました。内容はこちら
     沢山のご応募ありがとうございました。

あきる野市の鈴木からの一言
あきる野市の鈴木です。

千葉の鈴木からの一言

西脇からの一言

    北海道 大沼国定公園にて(R27)

第31回BMWフェスティバルにて(R69S)
私が21歳のとき、乗っていたバイクはメグロのK1スタミナKH500(1963年式)。映画「大脱走」でスティーブマックィーンが乗っていたトライアンフ・トロフィーTR6に近づけようと奮闘していました。

笹塚の村山モータースへはバイクを良く見に行ってました。1974年頃、店の前の甲州街道に陸橋が完成して間もない頃、1台のBMWサイドカーが止まってました。店の中から濃紺のロングコートにクロムウェル姿のオーナーが出てきて、そのサイドカーに両手を掛けた瞬間エンジン始動、と同時に体はサイドカーに横座りのまま跨らずスタート。そして、ギヤをセカンドに入れた頃、おもむろに跨り本車右ステップへ右足を置き走り去る光景は、まさにレース中のサイドカーがピットから飛び出して行くようでした。
その後、モーターサイクリスト誌(1976年10月号)にBMWの特集があり「私とBMW、BMWに惚れ続けた20年間望月健一氏(49歳=当時)」とあり、写真入りの記事が載っているのをみて「アッ!!あの時の人だ」と当時憧れたことを思い出します。
その時のサイドカーはR75/5ダンストールマフラーにスタイプTR500リーフスプリングだったように思います。

私もその後メグロからBSAライトニングA-65(1966年式)、トライアンフボンネビルT120(1960年式)と乗り換え1976年4月中古のR75/5(1972年式)を購入。その年の10月第4回BMWフェスティバル(於:大山)に参加させていただきました。又、1980年にサイドカーに乗り始めましたが、当時なかなか3人乗りの側車付き車検が取れなくて、多摩の陸事で3台目の2人乗りでしたが「ソクシャツキ」の6文字がもらえたときは、仕事柄、涙出るほど嬉しかったことを覚えています。

今、手元にあるバイクは、
     ■ソロは    R27(1961年式)1997年4月から所有
     ■サイドカーはR69S(1966年式)2003年1月から所有 
             スタイプTR500ゴム吊りタイプ(1962年式)2002年7月から所有
      ○3人乗り側車付車検取得:2003年10月

古本からの一言
古本です。

2017年、92歳の高齢につき退会いたしました。
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