第38回 サイドカーフェスティバル
2006年5月4日〜6日  長野県・菅平 
金子

 全国のサイドカーリストが毎年親交を深める「38回サイドカー連盟全国ミーティング」が去る54日から6日にかけて信州菅平高原で開催されました。例年3日〜5日の予定日との思い込みからクラブ員の多くは日付を間違え、前日集合したりした者や慌てて仕事のスケジュール変更などを行う者など混乱しながらの集合となりました。

5月4日

 当日の早朝、所沢の杉山氏会社前では山田さんがすでに到着。暫くするといつものメンバー田中幸ちゃん、杉山・中里ペア、柴田さん(今回はパッセン)のサイドカー4台に加え、菅原さんのR25/2ソロが揃ったところで出発。

秩父からの十石越え
 今回も、高速道路の混雑を避けるため一般道で現地入りを目指すことにする。ルートは秩父から十石峠越えをして長野県内に入って国道141号を北上。国道18号経由して国道144号から菅平入りである。

 日高で斉藤さんと合流し全員が揃ったところで再出発。正丸トンネルを過ぎ秩父市では毎年この時期「羊山公園の芝桜」の観光客で賑わうところで、渋滞は例年ほどでなく一安心し小鹿野町から群馬県上野村へ向かう。志賀坂トンネルを過ぎたところで道路右手の岩肌に恐竜の足跡の化石「さざなみの岩」を見ながら神流川に出会ったところで左折し暫く進んだ所の「道の駅上野」で小休止。

ここで皆の視線はR25に集まる。菅原さん曰く「このR25は今年54歳になったんだ。俺と○年しか違わないんだぜ。○○君より年とっているけど元気だろ」とか123型の違いR26R27のうんちくで盛り上がったところで出発。

国道
299号線を登って行く道は広く走りやすい。これは日航機墜落事故の慰霊現場までのアプローチ道路整備の関係と思われるところだ。その先の「ぶどう峠」への分岐点を右折し十石峠街道へ。道は南牧村から下仁田へ至る県道45号線との分岐を過ぎ狭陰道路となる。


大型ジープなどが来るたび谷側ギリギリに
SCを寄せるものの20cm位でのすれ違いである。何度かこのように進むと登り勾配がきつくなり高度をグングンと稼ぐ。このコースを走ったのは20年ぶり以来であろうか。当時、蓼科で開催された全国ミーティングの時は埼玉側が未舗装で「2度とこの峠は越したくない」と皆の意見は一致した、このコースは今日に至り全線が舗装されてあっけなく十石峠頂上へ到着。

私は今回アールズフォークをセッティングして初めての山岳ツーリングでその効果を図る目的もありました。テレスコは、右カーでの左コーナー登りでは、私のようなRSの短いハンドルバーは力でねじ伏せてのコーナーリングで体力が必要で、下りでのブレーキングは底付きして操作性に難があり、アールズフォークは山道での効果は期待どおりの結果を体感しました。腕力はあまり必要とせず、特に下りでのブレーキングでは以前と違い逆にハンドルバーポジションが上がった状態で坂を下ることが出来、視界確保や姿勢が楽に保てることなどで安全性が向上し、アールズフォークの底力をまざまざと実感しました。
 
 峠の駐車場で休憩していたところ新型のフラットエンジンの音が聞こえて来ました。駐車しようと乗車したままサイドスタンドを出したその時、大きなエンジン音とともに立ちゴケとなりました。リターンスプリング付きのサイドスタンドは乗車姿勢からそれを出しにくいのは
BM通の欠点の様な気がするのは私だけでしょうか。

 駐車場で田中さんの
SCを見ているとカー取り付けボルトの緩みを発見。ボックスレンチなどを取り出してのいつもの修理ングが始まりました。ここでもインチネジをミリネジに代えた方か良いとか緩み止めナットの方が良いとかイギリス製ワトソニアンSCのオーナーならではの会話が飛び交いました。

整備も終わり長野県側へ出発となった時、私の息子の気分が悪くなり皆さんには先に行ってもらい親子でしばし休憩。息子の調子も戻ったところで追いかけるも姿見えず。無線機はモールス信号の混信でつながりにくいものの本日の目的地とコースが分かっていたためなんとかなるさと思いながら焦らず仲間を追うことにする。



真田太平記の里へ

本日の宿泊地菅平と歴史を結びつけたとき、西に位置する長野市方面は武田・上杉両軍の激突地「川中島古戦場」、南は池波正太郎原作のドラマ「真田太平記」で有名となった上田市周辺が見どころといえます。

 現在、市町村合併で上田市となった旧真田町は真田氏発祥の郷であり、現在の上田市に築城する前の居館跡で、地元では「お屋敷」と呼ばれた所に「真田氏歴史館」があります。

 真田氏の活躍は何と言っても真田信繁(幸村)ですが、父「昌幸」と兄「信網」「昌輝」、祖父の「幸隆」そして幸村の兄「伸幸」が戦国時代なればこその活躍が有名で、関が原の合戦では兄弟が東軍・西軍に分かれどちらが負けても真田の家系を絶やさぬ苦汁の決断がなされた。

 そして何と言っても上田に築いた国内唯一の実戦軽験のある平城「上田城」は関が原の合戦において西軍に付いた昌幸、幸村に対し、関が原に向かった徳川家康は手勢を
2手に分け挟み撃ちにする計画で中山道を碓氷持越えで進める主力軍の総大将は家康3男秀忠(後年徳川2代将軍)。

 秀忠は関が原に駆けつける際、行き掛けの駄賃とばかり
38千の大軍をもって包囲し降伏を迫るなか真田2,500の守備隊は「われら大阪方に加担したものでなく敵対の考えは無い。明日にも城明け渡す」の回答に秀忠軍は喜んだが翌日になっても開城せず、逆に真田の使者は「太閣様の恩忘れ難く城を枕に討ち死にして、名を後世に止めたく存ずる。戦の準備は整ったのでいざ決戦」と徳川軍を翻弄し、秀忠は怒り心頭。
 大軍をもって
6日間戦ったものの絵局城を落とすことは出来ず、徳川秀忠は関が原の合戦に間に合うことが出来なくなった。

 関が原決着後反旗をひるがえしたことで昌幸、幸村は、高野山に蟄居となるが昌幸死後、幸村は大阪冬の陣では大阪城で奮戦、夏の陣では茶臼山に陣を敷き家康をさんざん苦しめた末に
49歳で討ち死にとなった。日本人が持つ「巨大組織に信念を持って一矢向かう姿勢」は全国に真田ファンが広まったと言われるゆえんでしょう。

 さて、「真田氏歴史館」では真田3代の活雇が分かりやすく解説してあり、大河ドラマ「真田太平記」で使用した武具も展示されておりました。なお、真田歴代の武具甲胃の本物は長野IC近く松代の「真田宝物舘」に数多くありますが、ここに展示されている大河ドラマで作成した鎧はレブリカですが1体数百万円もするとのことでした。

 案内の方が、「この先に真田家菩提寺であった(真田家は大阪夏の陣
8年後松代へ移封されたことに伴い菩提寺も松代へ)長谷寺は今が桜の見ごろです」をアドバイスに、狭い道の坂を上ってみると珍しいアーチ型の石門に寄り添うような桜が吹雪となって素晴らしい見景を見てから仲間の待つ会場へ。

会場を埋め尽くしたサイドカーたち

今回、第38回となるSCフェスティバル会場は、海抜1,500mに建つリゾートイン菅平スイスホテル地図】で、その駐車場はSCで溢れていました

 サイドカーショーでの各社出展ブースを見学したのちホテルフロント脇の大会本部でチェックイン。さっそく缶ビールで喉を潤わしながら、お椀型のヘルメット(H社製)を1,000円で買って来たとの声に、元H社勤務の中里さんが定価89千円はするものだと答え、一同「まだ残りはあるのかなあ?」

 夕食はスキー場の宿泊地からか若い人達のニーズに合ったバイキング形式。個人的には量より質のメニューが好みであるが致し方ない。2次回のパーティはパスして早々と床を確保するため部屋に戻る。なぜならイビキの震源地から一番遠い場所を確保するためだ。深夜に誰かが布団の位置を変えている気配を感じたものの久しぶりに熟睡。

5月5日

 明けて翌日。2間を仕切る襖のそばに寝た武ちゃん曰く襖の向こうから聞こえて来るものすごいイビキで布団の位置を変えたんだ。襖が振るえていたんだ!との声に一同さもありなん。今夜の幸ちゃんの寝場所は布団部屋だ!の声があり。眠れなかった方々お疲れ様です。

信州の良いとこ取りツーリング

 朝食後、大会メニューの浅間方面へのマスツーリングとは別方向の長野市〜信州中野へのツーリングへ。1泊予定の菅原さんは掃宅のため朝方別れ我々も出発。
 ホテル前の道を右折しダボススキー埠を見ながら道は緩い下りにさしかかったと思ったらいきなり急勾配のヘアピンが続くことに。

 本日最初の目的地「川中島古戦場」へは国道403号線の谷街道を千曲川沿いに進みます。この辺も武田上杉両軍の激戦地となったところ。堤防の向こう側の河川敷には武田24将の軍師であった山本勘助の墓があり、その先、千曲川に架かる松代大橋を超えた場所にある典厩寺は信玄の弟で、北条氏康、上杉謙信、織田信長ら藷将から異口同音に「褒めたたえること限りなし」と称賛された「典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)」の亡骸を弔った寺で寺の名は同人の名からとったもの。

その寺の先が「八幡原」と呼ばれる古戦場跡でNHK大河ドラマ(白黒放映時代)の“天と地と”で石坂浩二演じる上杉謙信が馬上から武日信玄に三太刀七太刀と浴びせたシーンはこの出来事の再現です。敷地内には当時造られた弓矢や鉄砲から身を隠す土塁と呼ばれる小さな堤防のような陣地が現在も数多く残っています。

 次に目指したのは温泉です。須坂から信州中野への道は国道403号線東を走る北信濃くだもの街道と言う広域農道を北上。この道路沿いからの視界は左に北信五山(班尾・妙高・黒姫・戸隠・飯網)、右手は志賀の山々、道沿いには桜・林檎・桃・菜の花などが咲いている中を走るコース。長野電鉄の踏切を越え間山温泉「ぽんぽこの湯」に、この温泉名は童謡、流行歌を件曲した中山晋平の生家が当地であり、晋平件曲の「証誠寺の狸ばやし」から命名されました。 
 ここの露天風呂(林檎収獲後のシーズンは林檎風呂に)から見る北信五山は雄大で、−同ゆっくりと疲れを癒し、その後の昼食はここでの手打ち蕎麦。“信濃では月と仏とおらがそば”のとおり大変美味しい蕎麦をいただきました。

 




帰路は小布施岩松院により本堂の天井画「葛飾北斉の鳳凰図」を見学。また、この寺は小林−茶の“かえる合戦”と戦国の武将「福島正則」の基があることでも有名です。
岩松院を出て土産屋に行こうとの声に小布施といえば“栗”なので竹風堂へ。皆さんトランクへ土産を詰め込め帰り国道406号大笹街道へ。道は広く追い越し車線もあるこのコースは走りやすく予定時間を短縮して到着。駐車場は前日溢れたSCどこに行ったの?と思うほど一気にSCの駐車は滅少しておりました。

夕食も終わり2次会に参加したところ抽選会ではブロンズのグッチが当たった。どうやらレッドパロンで造ったものらしい。SCは造っていないのかなーと思いながら仲間もいろいろなグッズを当選したところで部屋に引き上げ皆さん爆睡モード突入。

5月6日

上杉謙信居城の春日山城へ

 翌日、明け方から暖気音が聞こえる。九州方面は雨情報。ひょっとして西から来た方達は雨予想から連泊解消して昨日のうちに掃宅してしまったのか。

 帰りはそれぞれ自由解散となったため私達親子は長野市方面へ寄ってからということで高速入り口まで行くと息子のリクエストは「春日山城に行ける?」の要望。ここから往復150kmなら行ってあげるかと上越高田までかっ飛んで行き山腹にある春日山神社へ。遠く日本海を望みながらうまい空気と鳥のさえずりを聞きながら至福のひと時を過ごしました。

下ってふもとの上杉家菩提寺「林泉寺」に寄り上杉軍が使用した“みだれ籠”と“昆”の旗印を見ることが出来、親子共々感激しての掃宅となりました。

金子
今回出合ったサイドカー
※本文、写真とも金子さん。

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